スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

知覚の現象学:III<注意>なるもの、および<判断>なるもの

2007年07月18日 10:56

III<注意>なるもの、および<判断>なるもの

さてさて、これまでの認識論批判はさらに続く。
この項では、経験論に加え、主知主義をあわせて批判の対象にしているようだ。

まずは「注意」という作用について、両者が見落としている点をやっつける。

私が、いまここで何か、たとえば近くをよぎったハエでも、
に注意を向け始めたとする。この瞬間、注意という作用は、
メルロ=ポンティにいわせると、
「学びつつある意識(中略)、輪郭づけれれた無知、このまだ<空虚>だがしかしすでに決定された指向、これこをがまさに注意」となる(67)。

それは、経験論のいう「注意が自分の求めるものをそのつど更新によって獲得」するというものでもなく、また主知主義のいうところの「注意があらかじめそれを所有してしまっていること」なぞでもない(67)。

そのような奇跡やら真理といった大げさなものでもなく、
さしあたって、ぼややんとした、そういった不完全な状態なのだという。

・・・助かる感じがする。
ぼーっと、なんだろぅ・・・と(ハエなぞに)注意を向けているとき、
それが、私の求めているものの獲得しつつある!や、ハエの純粋意識なんて、
出てこない。これを分析せよ、といわれるまで。(いわれても、無視するけど)
普通、「あ・・・、ハエ・・・」ぐらい。

(午後に続く)

知覚の現象学:II<連合>なるもの、および<追憶の投射>なるもの

2007年07月17日 11:29

II <連合>なるもの、および<追憶の投射>なるもの

経験論、自然科学への批判の第二段。
前項の批判をさらに具体的に展開している。

まずは、知覚をばらばらに分割し、その総和として理解することへの批判。

「一つの輪郭は、単に現前している幾つかの所与の総体にすぎぬものではなく、
その幾つかの所与はかならず他の所与を喚起し、後者によって補完されるものである。」(47)

「知覚されたものの意味とは、理由なく再現しはじめる諸処の映像の布置」
(48)

ここは、ゲシュタルト心理学の影響を想起させる。
そろそろ、「布置」として感覚を捕らえるということには、
慣れてきた(私自身が)ようだ。

そして、何よりもまず、私たちが知覚する世界が、
分析するよりも、記述するよりも、先立って存在する、ということを
確認する。

「知覚における物の統一性は、連合によってはじめて構築されるものではなくてむしろ連合の条件なのである。それを証明し決定付ける検証作用に先立っているのであり、いわば自分自身に先立っている」(51)

明確なカント批判に思われる。
意識よりも先に世界がある、ということ。
このあたりは、ポスト構造主義の不安を取り除いてもらえる。

そして、より考えるヒントなるのは、次。
経験(記憶)との関係。
経験論への批判である。

「過去の経験→現在の知覚」
という順は、間違えという。

そうではなく、まず、世界がそこにあるのだから、
「記憶のもたらす一切の寄与に先立って、まず見られているものが
現に組織化されていて、そこに私が自分の過去の経験を再認できるような一つの画面を私に提供するような具合」(54-55)

いわれれば、なんてことはない。
まず、何か世界があって、私がそれを知覚して、そして
そこから過去の経験を喚起されることがあったり、なかったり。

しかし、研究史的にはこの主張は極めて重い。

「このときには<人間的世界>はもはや一つの隠喩であることをやめて、それが
現に在るとおりりのもの、つまりわれわれの諸処の思惟の環境、いわばその故郷のごときものと再びなるであろう。」(62)

!!!
これは大きい。人類学としても、人間社会を隠喩にして、
解釈したり、象徴として根底の意味なるものを探ったり、
さらにすべての社会に普遍的な構造なるものをモデル化したり、
そういったことは、
生活世界を知的操作の対象としただけ、ということなのであり、
生活世界をばらばらにしてしまい、もうそれは、分析対象としての
「生活世界」でしかない。全体的記述なるものは、ぜーんぜんできてない、
ということなのだろうか。

知覚の現象学:I<感覚なるもの>

2007年07月16日 18:23

序論 古典的偏見と現象への還帰
I<感覚>なるもの 29−44

序文にある、
現象学とは、説明することではなく、記述すること
である。
という本書の一貫した主張において、
この序論では、なぜそうあるべきかをこれまでの
心理学、生理学等の批判から浮き彫りにする。

このIは、そのうち、感覚に関しての部分である。

メルロ=ポンティは、
行為空間から切り離した純粋感覚なるものは、ない!
とはっきり断言している。
感覚を、
ありのままで、理解せよ。
言い換えるならば、客体世界に閉じ込めるならば、
そこには知的操作が入るため、
もはや全然、「純粋」なんかではない、ということ。

****************

ようやく、メルロ=ポンティが近ずいてきた。

ここでは、まず具体的なことをそぎ落とし、
感覚を説明(特に、生理学的に)して、理解
したつもりになっているのは、全然違う!と言っている。

赤い色をみる、ということだけでも、
赤が見えるためには、それを浮き彫りにする
ほかの色があること、
さらに空間があること、
それを見ている私があること、
それらの実際に見ているそこから、
切り離しては、
もう赤なぞ存在しない、、、

確かに、確かに。

「バタンキュー」プロジェクト

2007年07月02日 10:53

ある時、いつものように調子にのってあることないことを知ったかしていたら妹に、いわれた。

「最近、バタンキュー、やってないでしょ?」

「う。・・・やってない」

バタンキュー。

一日を全力で駆け抜けた人にだけ与えられる、
布団に体がつくやいなやはじまる深い眠り。

机に向って勉強や仕事をしてる(フリ)だけでは
得られない。
臆病風から人の顔色をうかがって、憂いのあるしぐさをしてるだけでは得られない。

体を動かす。
感情を解き放つ。
心も体もちゃんとくっつけて疾風。

昨日は、
話す、考える、掃除する、ご飯つくる、また話す、
そして走る、走る、走る。
また、心をこめてご飯つくって食べる、
話す、音を聞く、記憶に入る、
また話す、

そうしたら、
ずいぶん久しぶりに、
バタンキュー。


サユリスト

2007年05月28日 00:14

久々にめまいがする接吻(これは断じて文明開化以後、あらわれた「キス」などという軽薄なものとは違う)をみた。

還暦を迎えた吉永さゆりと当時46の渡辺謙。
2005年の映画「北の零年」の最初の方にそのシーンが出てくる。

026901kita.jpg


これは、北海道開拓史の映画で、吉永さゆりがレイプされそうになったり(未遂でよかった!)となかなか話題の作品。存在は、知っていたけれどあまり邦画をみる習慣がなかったので今日まで見ずにいた。

ちょっとすごいこの映画。
映画のテーマもさることながら、やはり小百合さま。
還暦でこれはありえない。(正確には撮影中は59歳)

ちなみに私の日本の女優で一押しは、原田美枝子。
「愛を乞うひと」は本当に最高。(最近の「華麗なる一族」はまずまず。あーまた、あの映画見たくなった。でも怖いんだよねー)こんな本格的な女優がいたことに感嘆していた。
一方、小百合さまは、やはりアイドル的印象があり、
そのやわらかさ、お上品さはダントツだけど、それ以上の考えは持ってなかった。

まあ、この映画で幅のある演技力、というものが
突出していたわけではない。
しかし、あの接吻シーンは必見(結局いいたいことはそれだけ)。

New Article